右手に杯を、左手に杯を

  
※
飲んで笑い、暴れて笑い。
右手を振れば杯が舞い、左手を振れば妖が舞う。
地獄の街道3丁目。今日も喧騒鳴り止まず。
飛び散るは酒か血飛沫、けれど笑いは止まらない。
星熊勇儀は今日もまた、大手を振ってらんちき騒ぐ。

所変わって地獄の深道。物音一つ聞こえては来ぬ。
右手を伸ばせば橋に当たり、左手伸ばせば端に当たる。
人っ子一人通るのがやっと、まさに狭きは心のよう。
水橋パルスィはぽつねんと、狭き暗きに身を重ね。
これぞ地獄に堕ちた業。最早泣くことも叶わない。
とんと振るわず雨すら降らず、心は既に枯れ果てて。

ある日星熊、街道外れ、酔いを醒ましに練り歩く。
暗き深道見つければ、何とはなしに彷徨い始め、
気づけばかなりの時間を歩き、不覚深くにたどり着く。
そして出会うはその二人。鬼の天王に鬼の姫。

「こんな所でもったいない。どうして一人でいるのかい。」
「それは自分に言っているの?こんな所に酒好きはいない。」
「酒に交われば赤くもなるさ。どうだ一杯、味は墨付きだ。」
「余計なお世話よさあ帰って、生憎ここは一人で一杯なの。」

てんで取り付く島もない。これぞ噂の橋の姫か。
次の日も、その次の日も、次の日も。
めげずに何度も星熊は行く、一人放るは性に合わず。
片や水橋、苛立ち隠せず。これぞ噂の山の鬼か。
次の日も、その次の日も、次の日も。
ほんの一刻、一日のよう。長く辛くに感じられ。
放っておいてと何度言うなら、この鬼は諦めるのか。

「やあやあ今日も一人かい。今日も星熊がやってきたぞ。」
「何度も何度もしつこい鬼。かつての四天が暇なものね。」
「瑕なき玉などあり得んさ。一度栄えりゃいつかは下る。」
「それはもっとも。このまま瑕は増えていくだけ。」
「なに、また磨けばいいだけだよ。今あることをやるだけさ。」
「飲んだくれがよく言うわ。ならばさっさと何処かへ行けば。」
「だから私はここにいるのだ。今やることは此処にある。」
「思い違いも甚だしいわ。私は好きでここにいる。」
「好きなわけがない。数奇なだけだ。私はお前を連れに来た。」
「貴方に何が分かるというの。隙間ないこの心の黒が。」

怨嗟渦巻きとぐろ巻き、嫉妬の大渦に身を任せた、
かつての恋沙汰、その末路。
ぐるぐる巡った心の内は、挙句果てにはくだを巻き。
どおっと吐き出す深緑の渦、ついに星熊も巻き込んだ。

橋から端へ、人から鬼へと追いやられたその顛末。
妬みつらみが飲み込んだ、恋の敵は数知れず。
気づけば誰を妬んでいたか、それすら分からず飲み込んだ。
決して戻れぬ戻り橋。行くも戻るも最早叶わず。

言葉の濁流過ぎ去れば、残ったものは静寂だけか。
あるいは流れ損ねた水か、無い空に煌く1つの星か。
「さあいいでしょう放っておいて、」そう言い放つ水橋に、
「また明日来る」と微笑んで、星熊はそっと腰を上げた。

※
次の月、また次の月、次の月。
変わらず毎日やってきた。変わらぬ笑顔に変わらぬ酒気に。
まるで水橋の言動1つ、意にも介せず悠々と。
あきれ果てては言葉も出ず、苛立つ気持ちもはてさてどこへ。

「貴方に言葉は通じないの。何度来るなと言ったかしら。」
「ならばいよいよ分かるだろう。飲んべぇに言葉は通じない。」
「本当に妬ましい。千の恨みも万のつらみもどこ吹く風ね。
それだけの傲慢ならば、さぞかし私も楽しかったでしょう。」
「私には今、たった一の願いしかないのさ。
どれだけ数を増やそうとも、この一本角は折られんよ。」
「とんだ不遜ね、酒だけでなく自分にも酔うだなんて。」
「私の願いは唯一つ。貴方と酒を酌み交わしたい。」
「それは残念、永遠に叶わぬ夢よ。私はお酒が嫌いなの。
好きなだけ来て、諦めなさい。楽しみにしていましょう。」

※
次の年、また次の年、次の年。
星熊はいつもやってきた。いつも通りの笑顔に杯。
意識変われば習慣変わり、習慣変われば性格変わり。
気づけば暗き深道は、一人でいるには随分広く。

「まるで名前にそぐわないわね。星熊だなんて言いながら。
目も眩む陽のように毎日毎日、頼んでもないのにやってきて。
悩み一つなくご機嫌に、妬ましいことこの上ないわ。」
「星か陽かに違いなどないさ。あるのは遠いか近いかだけだ。
遠くで光っていた星がゆっくりと、暗い深道を照らしに来たのさ。」
「あらあらお山の大将が、似合わない言葉を吐くわね。
臭いのは酒の匂いだけにしてちょうだいな。」
「ははっ、違いない。ならば飲もう、さて貴方も飲むか。」
「酒はいらないと何度言えば。酒も酒好きも嫌いなの。」

さても星熊はやってきた。十年、百年やってきた。
いつしか鬼のいる時間、同じ一刻に変わりはないが、
気づけば在らぬ時間のほうが、水橋長く感じられ。

※
その日は冬の寒い日だった。地底であれど冬は冬。
それでも今日もあの鬼は、杯片手に来るのだろう。
どっこいいつもと様子が違った。
来たのは地獄と反対の道、やって来たるは紅白の巫女。

「この穴はどこまで続いているの。進めど進めど穴ばかりね。」
「誰だお前は、人間か。人間が地底に何の用か。」
「何の用かはこちらが聞きたい。こんな所まで連れてきて。」
「訳の分からない事を言う。けれど残念、先は永遠の通行止め。
延々とまた引き返しなさい。」
「よく簡単に口にする、永遠をすら生けない癖に。
永遠などは永遠来ない、言葉の重さに潰れなさい。」

言うな否やの札の雨。光と波の大洪水。
並々ならぬ量と質とに、あれよ文字通り押し潰された。
一方巫女は何も無かったかのよう、すうっと道を進んでいった。

ほんの四半刻過ぎた頃、水橋はっと我に返る。
暴力巫女はどこへやら。そして何より星熊は。
街道へ行ったのならば、鉢合わせてはしまわないのか。
嗚呼、嗚呼なんと妬ましい、何故に心配しなきゃならない。
ついに水橋は深道離れ、地獄の街道へ踏み入った。

百年ぶりの街道の空、降るのは粉雪、そして光。
此方に見えるは巫女の背中、彼方に見えるは鬼の顔。
どうして星熊も巫女に劣らず、傍目に分かるほど紅くに染まり。

「止めなさい、あの鬼に最早勝ち目は無いでしょう。」
「ならば貴方こそあいつを止めて。向かってくるのは向こうの方よ。」
「ねえ、星熊よ。これ以上の争いは無用。その降り上げた拳をしまいなさい。」
「おや、貴方か。……そうか、ならば止めるとしよう。」

星熊、手を下げ身を下げ、そしてその場に倒れこんだ。
駆け寄るは鬼の橋姫、駆け抜けるは紅の巫女。

「何故そのような無茶をしたの。」
「やあすまないな、この体じゃあ今日は行けなさそうだ。」
「安心しなさい、今日は私が来てあげたんだから。」
「本当だな。ならば飲もう、さあ、いよいよ飲むか。」
「ねえ答えてちょうだい、なんでこんな無茶をしたの。」
「こちらの意見は飲んではくれないのか。」
「貴方が飲んだらそうしましょう。」
「……貴方が、やられたと、そう聞いた。それだけさ。
さあ飲もう。やあ、今日は寒いな。傘が欲しい。」
「これくらいの粉雪ならば、濡れるほどでもないでしょう。」
「降るのは雪ばかりでもない。さあ杯を渡そう、飲んだ飲んだ。」

そして二人は杯を手に、そっと手を掲げ口をつけ。
粉雪は一向に積もらず、頬を濡らすには余りに弱く。
なるほど確かに傘が欲しいと、濡れた頬見て水橋思う。
右手をみれば杯があり、左手をみれば妖があり。
地獄の街道3丁目。しかし今日だけは喧騒はなく。